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古代、かなり都会だった!? 群馬県に古墳が多いヒミツ/群馬

今では大自然のイメージが強く、景勝地としても親しまれている群馬県。でも古代の日本では、かなり都会だったことが分かっています。日本の歴史は、旧石器時代までさかのぼることができますが、群馬県にその遺跡が残っているのです。

旧石器時代といえば、縄目模様の土器で知られる縄文時代よりもさらに昔のこと。山に囲まれ、平野が広く、水量豊富な川を多く持つ群馬県の地形が、食糧となる植物を安定的に提供してくれました。その後シカやイノシシの狩猟やサケ漁により、人の営みがさらに豊かになり、現在群馬県で人々が生活する場所のほとんどに、縄文人が暮らしていたといわれています。

■セレブも集まる交通の要。副葬品が当時を語る

群馬県は、古くは信越地方と関東を結び、また古墳時代には、大和政権のある近畿と未開拓の東北を結ぶ交通の要の位置にありました。人口が集中してくるにつれて豪族や有力者が現れ、当時のセレブ度を競うように大小さまざまな古墳が残されています。

最高ランクの形とされる前方後円墳を含め、県内に残る古墳は1万基以上! 中からは、当時のライフスタイルをうかがわせる埴輪などの副葬品が、多数出土しています。

古墳といえば奈良や大阪がメジャーですが、かつて都でもあったこの2都市は、墓荒らしや震災、火事などにより多くが被害を受けました。ところが、群馬には遺跡をそっくり残すことのできる天災、火山噴火があったのです。それは「日本のポンペイ」といわれる黒井峯遺跡として現在によみがえりました。

■馬を飼い、ハイテク技術の導入で暮らしが豊かに

ポンペイは古代ローマの都市で、火山噴火の火砕流により街全体が埋まってしまったことで知られています。千数百年後に発掘すると、人の営み跡がそっくり残っていたため、当時の暮らしを知る貴重な資料となりました。

今の群馬県渋川市も、約1500年前の榛名山の噴火で、街の一部が軽石層で覆われました。その跡を調べてみると、古墳時代の驚くべき豊かな暮らしが見えてきたのです。

住居は竪穴式だけでなく、壁と屋根を持つものもあり、倉庫、家畜小屋、垣根、道路など江戸時代の農村なみの充実ぶりだったよう。榛名山から離れる方向に複数の人の足跡も見つかり、火山灰から逃れようとしていた様子も推測できます。馬のひづめの跡も、多数見つかりました。

当時すでに家畜だった馬は、もともと日本にはおらず、古墳時代中期に朝鮮半島を渡って中国からもたらされました。馬の登場は、人々の暮らしを激変させます。移動が速く、荷物も運べて、農作業の貴著な労働力になりました。このハイテク技術を広めるため、地域を挙げて馬の生産に力を入れるようになり、日本で有数の馬産地になったのです。

■現代と古代をはっきりと結ぶ「日本のポンペイ」

「日本のポンペイ」が発見されたのは昭和57年ですが、全貌が明らかになったわけではありません。その後も発掘は続き、平成24年には、近くの金井東裏遺跡からよろい姿の成人男性が見つかりました。その後、装飾品を身につけた女性や祭祀の跡なども発見され、古墳時代の暮らしが徐々に明らかになってきたのです。

平成26年には鍛冶遺構が姿を現しています。円形の炉に砥石、鉄を打った時の破片も多数出土し、鍛造技術のクオリティーの高さを示すものとして注目を集めました。平成24年発見のよろいが、鉄製でも木製でもなく、珍しいシカの角製であることが判明したのは、今年に入ってからのことです。

現在も調査研究が続く、群馬県の貴重な遺跡群。もしかしたら、近所の畑にも土器が埋まっているかもしれません。それをきっかけに、歴史の通説がひっくり返る大発見があるかも。土の中から語り掛けてくる古代人の声に耳を傾けて、人類の活動とその変化を研究する学問「考古学」を学んでみませんか?

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