最新古墳にコーフンニュース

ニュース

森和彦・古代史の現場を撮る/47 菖蒲池古墳 石棺二つ、入鹿の墓か/奈良

巨大な溝(掘割)が見つかり、1辺50メートルを超える巨大古墳の可能性がある明日香村川原の小山田遺跡。飛鳥時代の豪族、蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓という説が注目を集めている。日本書紀は、息子の入鹿(いるか)の墓と併せて大陵(おおみささぎ)、小陵(こみささぎ)を造ったと記す。では小陵はどこか。候補に挙がるのが、谷を挟んで小山田遺跡のすぐ西側にある橿原市菖蒲町の菖蒲池(しょうぶいけ)古墳(1927年に国史跡指定)だ。

菖蒲池古墳は墳丘の大部分が失われ、露出した石室内に家形石棺が二つ、縦に並んでいる。蓋(ふた)に特徴があり、寄せ棟式の屋根に棟飾りが付く。石棺の内側には漆が塗られている。1990年に石室内を撮影した古代史写真家の森和彦さん(77)は「内部の漆塗りが一部見えた。棺の外側には線などの装飾が彫られている」と話す。

古墳は7世紀中ごろに造られた1辺約30メートル、2段に築かれた方墳で、周囲に数メートルの空堀が巡る。堀は前面から奥に行くほど狭く、遠近感を出すためともされる。橿原市教委は2013年2月、菖蒲池古墳の周囲を巡る空堀の外側にも堤があった可能性があると発表した。外堤があるなら東西80メートル程度が墓域となり、墳丘本体の規模より大きな印象を受けただろう。

日本書紀によると、642(皇極元)年、蘇我蝦夷、入鹿父子は今来(いまき)の地に自らの双墓(ならびばか)となる大陵、小陵を造った。645年、乙巳(いっし)の変によって入鹿が殺され、蝦夷は自害した。

小山田遺跡の石溝の向きから推定される古墳の南北軸と、菖蒲池古墳の南北軸はほぼ同じ。さらに、菖蒲池古墳は築造後、間を置かずに一部が壊され、柱の間隔が3メートルもある大型の掘立柱建物(東西15メートル、南北9メートル以上)が建てられていた。構造物がほどなく壊されたらしい点は、小山田遺跡とも共通する。

これらを考え合わせると、小山田遺跡を大陵、菖蒲池古墳を小陵と推測したくなる。日本書紀は蝦夷、入鹿を葬ることは許されたと記し、菖蒲池古墳の二つの石棺を父子のものとみる研究者もいる。

大陵、小陵には別の説もある。古くは御所市古瀬にある水泥(みどろ)南・北古墳とされたが、古墳の築造時期が合わないとの指摘がある。橿原市教委が調査した、菖蒲池古墳の西側にある同市五条野町の宮ケ原1・2号墳も候補に挙がる。7世紀中ごろに造られ、30メートル、25メートル程度の方墳だったと推測されている。

宮ケ原1・2号墳は造成に伴う調査で見つかったが、墳丘や石室はすでに壊され、現在は住宅が建つ。橿原市と明日香村の境界はすぐそばだが、村側は歴史的風土の保存を目指す「明日香法」などで無秩序な宅地造成ができない。一方、市側は丘陵が削られ、次々と開発が進められていった。森さんは「失われた遺構も多い。きちんと学術調査を行い、保護されていれば飛鳥時代の実像を今も見ることができたはず。とても残念だ」と話す。

記事のページ:
http://mainichi.jp/articles/20160830/ddl/k29/040/588000c