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小山田古墳の被葬者 候補は舒明と蝦夷だけか/奈良

2年前の調査で巨大な石溝が発掘された奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、石室の跡が検出され、古墳だったことが確定した。2015年2月の本欄で、墳丘も石室も見つかっていない以上、古墳とは限らないと、斉明天皇の孫、建王(たけるのみこ)の殯(もがり)(仮の葬礼)の場の可能性を指摘したが、ひとまず撤回し、改めて被葬者について考えてみたい。

今回、石溝の南約60メートルが発掘され、石室の通路両壁の土台とみられる巨石を取り去った跡と、排水溝とみられる暗渠(あんきょ)が見つかった。墳丘の盛り土も見つかり、一辺約70メートルの古墳であることが確実となった。

盛り土の中に630年代の瓦片が混じっていた。石溝に墳丘側と山側から流れ込んだ土や石の堆積(たいせき)の上部に680年代ごろの土器があった。小山田古墳は630年代以降に築かれ、680年代よりもかなり前に崩壊し始めたことになる。

この時期、このように大規模な古墳に葬られた可能性がある人物は最高権力者に限られる。
その一人、舒明(じょめい)天皇は皇極天皇元年12月21日(西暦643年1月19日)に「滑谷岡(なめはさまのおか)」(所在地不明)に埋葬され、9カ月後に「押坂陵」に改葬された。小山田古墳は「押坂陵」とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)と同じ室生安山岩の板石積みがあり、「滑谷岡」の初葬墓ではないかという。

6~7世紀の天皇陵(大王陵)とみられる古墳の形は、敏達(びだつ)天皇までは前方後円墳、蘇我氏を母とする用明、崇峻(すしゅん)、推古の3代は方墳で、蘇我氏と血縁のない舒明から八角墳に変わった。

舒明の改葬墓とみられる段ノ塚古墳など古い段階の八角墳は、下に方形壇を備えている。古代中国の書物には「天円地方」と記され、天は半球か球形、地は方形と考えられた。

『古事記』『日本書紀』によれば、天(あま)つ神の子孫である天皇は、国つ神(地の神)の子孫である在地豪族の娘をめとって国土を支配した。ドーム状の「天」が方形の「地」を支配する形が天皇陵にふさわしいと考えられたのかもしれない。

小山田古墳は早くに破壊されたらしく、墳丘の上部の形はわからない。方墳で舒明の初葬墓だとすると、前代と同様、方墳に葬られた後、蘇我系ではない新時代の天皇として新式の八角墳に改葬されたということになりそうだ。

しかし、小山田古墳の場所は、舒明が亡くなった百済宮(くだらのみや)や殯の場所から離れている。被葬者のもう一人の有力候補、蘇我蝦夷(えみし)は生前、舒明の初葬と同じ年に、小山田古墳がある「今来(いまき)」の地に自分の墓として「大陵」、子の入鹿(いるか)の墓として「小陵」を築いた。

小山田古墳の西隣にある菖蒲池(しょうぶいけ)古墳は方墳で、漆塗りの豪華な石棺が2基納められている。小山田古墳を大陵、菖蒲池古墳を小陵として、大陵は壊され、蝦夷、入鹿父子とも菖蒲池古墳に葬られたとする見方もあるが、『日本書紀』は、645年の乙巳(いっし)の変で2人が討たれた後、屍(しかばね)を墓に葬ることが許されたとだけ伝え、大陵、小陵のその後には触れていない。

小山田古墳の発掘調査は今後も続く。舒明の初葬墓と蝦夷の大陵はどちらも642~3年に築かれ、1~3年で必要性を失った。石室内から640年代の土器が出てきたらどちらの説にも有利となるが、万一、650年代の土器が出てきたらどうだろう。

658年に亡くなった建王の殯の場は、斉明が残した歌に「今城(いまき)にある小丘(をむれ)」とあり、小山田古墳の近辺と考えられる。皇后として舒明を見送った斉明(皇極)が、建王の墓に祖父の舒明と同じ板石積みをしてもおかしくない。建王の母は蘇我氏だから、墓が蘇我氏に特徴的な方墳だった可能性もある。

小山田古墳が発掘されるまで、誰もこの地に飛鳥時代最大級の方墳があるとは想像しなかった。結論を急がず、あらゆる可能性を考えたい。歴史の扉を開く鍵穴とその鍵は、いつ、どこで見つかるかわからないのだから。

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http://mainichi.jp/articles/20170322/dde/018/040/020000c