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行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か

昔の喪服の色は白だったのに、現在の黒に変わったのはいつ? 飛鳥・奈良の昔から江戸時代まで、天皇の葬儀は仏式だったのに、明治以降はなぜ神式? そんなナゾを解き明かした『天皇家のお葬式』(講談社現代新書)の著者・大角修氏は、多くの天皇陵を巡っている。そこで驚いた「天皇のお墓」とは――。

明治天皇の「お墓」をご存知か
『天皇家のお葬式』(講談社現代新書)をまとめるにあたって、京都・奈良・飛鳥・吉野の天皇陵を巡った。

その際、驚いたのが明治天皇の伏見桃山陵だ。参道に幅広くまっすぐな230段もの石段があり、両側の杉森をくっきりと分ける。仰ぎ見れば天に伸び上がるような急な石段で、「明治大帝」の威光を表している。

大正元年(1912)9月の明治天皇大葬のおり、この石段の斜面にケーブルカーの軌道を敷き、台車に柩をのせて引き上げた。当時は「傾斜鉄道」といった。その写真が絵葉書になっているので、文明開化の明治の天皇にふさわしい新技術だったのだろう。その斜面がこれほど急峻であったとは、行ってみなければ実感できないことだった。

この石段の上は神社と同様の玉砂利の広場で、大きな鳥居の向こうに明治天皇の半球形の陵が見える。下段は方形なので上円下方墳という形の墳丘である。

この形は東京都八王子市の武蔵陵墓地(多摩御陵)の大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后の陵にも引き継がれた。そのため、天皇陵といえば古墳のような墳丘がイメージされる。世界最大級の仁徳天皇陵古墳(大山〈だいせん〉古墳)などの印象も強いためだろう。

しかし、大古墳の築造は畿内では6世紀頃に終わる。それは律令国家の建設と軌を一にした動きで、大王(おおきみ)の権威は朝廷の大極殿や寺院の金堂・五重塔などの建築と、そこで営まれる華やかな行事によって示されるようになる。

火葬になったり、土葬になったり
天皇の葬法に大きな変化があったのは飛鳥時代の大宝3年(703)12月のことだった。持統天皇が天皇として初めて荼毘(だび)にふされたのである。持統天皇の崩御は前年12月なので、1年間の殯(もがり)をへて白骨化してから火葬したのだった。

殯は古墳時代からの葬法である。天皇が崩じると、殯宮(もがりのみや)という建物をつくって長期に遺体を安置し、完全に他界したことを見届けてから葬った。持統天皇の葬法は、長期の殯の習わしをまだ強く残していたことになる。

そこに仏事が加わる。6世紀半ばの仏教公伝から百数十年が過ぎ、飛鳥地方には大寺院が建立されて多数の僧がいた。持統天皇の崩御後には四十九日と百ヵ日に斎(とき・施食の法会〈せじきのほうえ〉)を営み、仏法による供養が行われた。

その後、奈良時代初期の天皇は火葬だったが、聖武天皇(756年崩御)から土葬に戻った。

聖武天皇は東大寺大仏を建立し、古代仏教の最盛期をもたらした天皇である。その葬儀は、ことに盛大・華麗であった。多くの僧が読経し、種々の幢幡(どうばん・旗)や華縵(けまん・花飾り)を連ねた葬列を組んで柩を佐保山陵に運んだ。

そのもようは『続日本紀』に「仏に奉るが如し」という。近年まで伝統的な葬儀で見られた幢幡や提灯を連ねて墓地に行く野辺の送りの始まりである。

また、聖武天皇は諡(おくりな)をされなかった。諡とは没後につける追号で、生前の名は諱(いみな)という。最近、文科省が「聖徳太子」というのは生前の名ではないという理由で歴史の教科書では用いないと言い出して物議をかもしたことがあるが、そもそも歴代天皇の名も全て追号である。

ところが、聖武天皇は生前に「勝満(しょうまん)」という戒名を受けていたので追号をおくらなかった(後年、「勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)」と諡される)。

『続日本紀』には、経典を冥土の乗物として亡き天皇の霊を仏の国に送ると記されており、葬儀でお経を読み、死者に戒名をつけて冥土のお守りとする風習の始まりを伝えている。

その後、天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の後光明天皇(1654年崩御)からはずっと土葬である。

幕末、古墳が復活した
江戸時代の歴代天皇の葬儀は京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)で行われた。もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内に埋葬された。

「月輪陵(つきのわのみささぎ)・後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)」と呼ばれる区画に14人の天皇陵がある。といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石の九輪塔がぎっしりと立ち並んでいる。

古墳のような墳丘が復活したのは慶応2年(1867)に崩じた孝明天皇のときだった。尊王攘夷と王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれたのである。ただし、その場所は泉涌寺の裏山だった。

神仏分離の明治以降の天皇陵は寺院から切り離され、葬儀も神道式になった。とはいえ、明治天皇の大葬には仏教各宗はもちろん、キリスト教団体も参列した。

大正天皇の大葬(1927年)は、放送開始から間もないラジオで実況中継され、葬場での一同礼拝の時報に合わせて全国一斉に遥拝が行われた。それは迫り来る国家総動員の戦時体制の予兆のようであった。そして昭和天皇の大葬(1989年)のときには憲法の政教分離原則との関係が大きな問題になった。

今日、一般の葬儀は個人化がいちじるしく、家族だけで小規模に行うことが増えている。しかし、かつて葬儀は家と地域の重要な行事で、「お葬式」には親族も近隣の人も何をおいても駆けつけるものだった。なかでも「天皇家」の葬儀は日本という国家のありかたを示す。その意味をこめて拙著のタイトルを『天皇家のお葬式』とした。

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