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シンポジウム 小熊山、御塔山古墳 大和政権と密接つながりか 別府湾面し、仲介役を埋葬?大分・杵築/大分

別府湾に面した小熊山(こぐまやま)古墳と御塔山(おとうやま)古墳(いずれも大分県杵築市)の国史跡指定(今年2月)を記念したシンポジウムが5日、同市内で開かれた。出土した埴輪(はにわ)からは、当時の倭(わ)(日本)を支配した大和政権のあった近畿との関連性が指摘された。

2古墳は国東半島の南東端の海岸に面した高台にある。両古墳間の距離は500メートルと近い。小熊山古墳は3世紀後半から4世紀初頭の前方後円墳で、墳長116・5メートルは同県内最大規模。出土した円筒埴輪は、縁の部分がL字形に曲がる。古墳の墳丘や墓域を区画する円筒埴輪の中でも初期の特徴とされ、九州では最古の出土例だ。

御塔山古墳は5世紀前半の円墳で、方形の短い突出部「造り出し」が付く。墳長80・5メートル。特徴的な出土品は木樋(もくひ)形の埴輪。水をためるくりぬきと、水を流す溝があり、近畿で始まった古墳時代の水の祭祀(さいし)遺構「導水施設」の木樋を模している。導水施設は、木樋や木槽に水を流し、浄水を得る遺構で、周囲を建物や壁で覆って隔離していた例が多い。豊作や地域の繁栄を祈願したと考えられている。福岡県行橋市の延永ヤヨミ園遺跡では、3世紀中ごろ~4世紀中ごろの国内最古級の実物の木樋(全長4・2メートル)が出土している。

御塔山古墳の木樋形埴輪は九州では唯一の出土例。家形の埴輪や、周囲を覆う壁状の埴輪もあり、導水施設全体を表現していた可能性が高い。このほか、船、盾、よろいなど、多様な形状の埴輪もある。

吉田和彦・杵築市教委主査は2古墳の埴輪について「(大和政権のある)近畿の最先端の祭祀を取り入れたもので、近畿と密接なつながりがあった」と解説した。いずれも瀬戸内海や別府湾の海上からもよく見える場所にある点を挙げ、「海上の交通を意識して造った」と推測した。

2古墳のある別府湾一帯は大和政権による九州支配の要だったと考えるのは福永伸哉・大阪大教授(考古学)。「広い平野がない地域で100~80メートルもの大型古墳があるのは驚き」と話す福永教授が注目するのは、2古墳と同じ時期の九州中部や南部の状況だ。

3世紀後半から4世紀初頭は大和政権が成立した時代。当時、大和政権が威信財として配ったとされる三角縁神獣鏡が、大分、熊本両県内で出土している。また、九州南部で瀬戸内海側にある生目(いきめ)古墳群(宮崎県)、塚崎古墳群(鹿児島県)などが造られ始める時期に当たる。

こうした点から福永教授は、小熊山古墳が造られた理由を「成立したばかりの大和政権が、中央政権の立場を確立するため、九州の中部や南部の有力者たちとの連携を図った。その中で、小熊山古墳の被葬者が重要な仲介役を担ったため」と指摘した。

5世紀前半の御塔山古墳の時代になると、同じ南部の瀬戸内海側で、九州最大の古墳群・西都原古墳群(宮崎県)にある男狭穂塚(おさほづか)古墳・女狭穂塚(めさほづか)古墳(いずれも墳長176メートル)、鹿児島県の唐仁大塚(とうじんおおつか)古墳(墳長154メートル)などの大型古墳が造られる。御塔山古墳の被葬者は、こうした大型古墳の被葬者との仲介役だったと考えられるという。

2古墳の時期差が約100年ある点についても福永教授は重視する。大和政権の近畿での本拠地が移動する時期と重なるからだ。3世紀後半から4世紀初頭は、大王(天皇)の墓などの巨大古墳は奈良盆地に集中するが、5世紀になると大阪平野に集中するようになる。

福永教授は、大和政権の主導権が、奈良盆地の豪族勢力から大阪平野の豪族勢力に移った上で、全国の豪族との連携も新たに働きかけたと考える。「九州の勢力とのパイプも作り直そうとした。そこで御塔山古墳の被葬者と手を結んだ」とした上で「大和政権が九州の中部や南部の勢力と連携する際に、地政学的に重要な別府湾の勢力を無視できなかった」と想像した。

瀬戸内海に面した、大和政権の九州支配の拠点として近年浮上しているのが福岡県行橋市周辺だ。導水施設の木樋が出土した同市の延永ヤヨミ園遺跡のほか、同遺跡の北東約6キロには3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳・石塚山古墳(同県苅田町、墳長約130メートル)がある。こちらが九州北部向けなら、別府湾一帯は九州中部・南部向け。瀬戸内海を通じた九州支配ルートの使い分けが見えてきたかもしれない。大和政権の権力変動を、2古墳が反映しているとする点も興味深い。

課題もある。別府湾を含む瀬戸内海西部一帯では弥生時代から海上交通が活発だった点を指摘したのは下條信行・愛媛大名誉教授(考古学)。愛媛県や大分県、山口県、福岡県など、瀬戸内海西部の周防灘一帯で共通する遺物を挙げた。弥生時代では、愛媛県・松山平野由来の土器で、物を載せる台座がついた長い円筒状の「大型器台」。古墳時代では、古墳墳丘上の祭祀で用いられた飲食用のつぼと、皿に脚がついた「高坏(たかつき)」だ。

下條名誉教授は「瀬戸内海西部で共有する祭祀用具がある」とした上で、2古墳について「近畿との関係だけでなく、瀬戸内海西部全体の交流の中での位置付けも考えないといけない」と問題提起した。弥生時代から続く海上交通の要所だから大和政権も注目したのだろうか。文化庁の水ノ江和同(かずとも)・文化財調査官は2古墳の史跡指定の意義について「九州の古墳時代の始まりと展開を語る上で欠かせない存在」と話しており、今後も多角的な検討が期待される。

その意味で重要なのは、2古墳が海から容易に見えるという点だ。大阪平野に大和政権が移った時代に造られた、日本最大の前方後円墳・大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵、大阪府、墳長486メートル)も、当時は海から見られたとされている。九州の石塚山古墳も、築造当時は海岸に近かった。その後の開発などで海岸線が移動したために、海からの視点についてなかなか気がつかない。2古墳は山々に紛れないように、わざわざ高台を選んで造られている。

大型古墳の威容による権力の誇示は、海上にも向けられていた。海路のランドマークとしても役だったはず。当時海辺にあった古墳をたどれば、海上交通路や大和政権による支配ルート、地域の豪族たちとの連合ぶりが分かってくるのかもしれない。

2古墳について、出土した埴輪などで紹介した展示「水の願い・神への祈り」が、杵築市のきつき城下町資料館で開催中。12月3日まで。

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